イベントに行ってきました
これですね
一番笑ったのはよっぴーのくだりでした
どうでもいい私が記憶している話を適当に書いておきます
西川ANNとの出会い
まだ小学生でした。
周りがGLAYかラルクかと騒ぐ中、好きなアーティストがいるのが一種のステータスのような小学校5年生の冬(1998年末)
ずっとなんとなく気になっていたTMRにハマり始めていました
年齢逆算してもらうとわかるように、ザ!西オタのドンピシャ世代より私は2歳くらい若く(今となってはBBAだが)当時ライブに行ったらそりゃ年下として可愛がられたものでした
とにかく、ブレイク真っ盛りのTMRにハマりました
あんまりよくいつ!と覚えていないのですが、小学校卒業を控えた私はラルク、GLAYにハマった友人ととにかく雑誌を交換しては激安カラオケ(昼フリータイム500円ワンドリンク制)に入り浸ってアーティストを舐め回すというような生活をしていました
今では全力のコレクションとなっているVHS録画というものも、好きになってからしばらくはそんなに行っておらず、初めて自身で録画をしよう!とVHSを手に取ったのは1999年2月5日OAのMusic Station(WILD RUSH)だったのを覚えています
録画は姉にゴルフ番組をなぜか上書きされ、現在でも持っていない、恨みの詰まった放送回です
テレビ番組の録画という手段を覚え、卒業式が間近に迫った3月ごろ、この世にはラジオという文化があるのを思い出します
子供だったのでラジオ=おそらくNHKあたりのおじさんがしゃべる天気予報程度の認識しかなく、車の中で音楽が途切れた時にかかるつまらないものという認識だったのです
ことの発端はGLAYとラルクファンからの猛烈なやまだひさしのラジアンリミテッド押しでした
実際に聞いた思い出はないのですが、この2強バンド、とにかくラジアンリミテッドでの炸裂っぷりが素晴らしく、インターネット黎明期の中、ラジオの書き起こしが出回りまくり、地上波では聞けないであろう2バンドの下ネタがバリバリ流通していたのです
ようやくここで、ラジオにも面白い番組があると気がついたように思います
ある日、おそらくCDでーた(1999/2/20号多分)を友人から譲り受け、ふとメディア欄に「レギュラー放送中!西川貴教のANN!」と記載があるのをみました
東京ドーム公演を控え、TV出演をしている情報を見る中でラジオ番組を持っているというのをしっかりと確認し、聞かなければと思ったのはここだったと思います
正直それまでラジオなんて、、、と思っていた気持ちが切り替わりました
東京ドーム公演を控えていた西川の話が2時間もきける!と深夜初めてのANNを聞いたのをよく覚えています
おそらくですが2月の後半、1999/2/19の放送でした
初めて聞いたコーナー?企画は、タイトルを全然思い出せないのですが、
とにかくWILD RUSH発売記念!お前のジャンゴーはいつ生えた!?的なまあ、なんとも今考えれば石川がゲラゲラ笑っているだろうという素晴らしいド下コーナーでした
小学生ながらに「レボレボ」というテキメキ星の王子が普通の人間だったことを知ったのです
そして聞いた直後に最終回が迫っているという衝撃の回でした(のちにSUPER!という伝説のクソ枠へと移行する)
おそらくしょーもない、身のないド下ネタに触れた最初の出来事だったようにも思います
ああ、親に隠れて聞くものなんだ、と一瞬で知った
青春のスタートだった気がしています
1999/03/19(金)OA T.M.Revolution西川貴教のオールナイトニッポン
このラジオを聞いた前後、小学校卒業を控えた私はとにかくTMRにのめり込んでいました
ドーム公演に行くという選択肢さえなかったガキだったのでみんなで前記したカラオケに行き、WILD RUSHの女性ダンサーの振り付けとHIGH PRESSUREの腰の動きを完コピすることだけに注力し、GLAYオタはWinter AgainのMVを完コピするため腕を広げながら部屋をゆっくりと後退りしていました
初めてのライブ終わりのレボレボの感想が聞ける回だ!と盛り上がっていたのを覚えています
ですが、内容はなんとも衝撃のT.M.Revolution封印宣言でした
今となっては藤井徹貫が書いたのかもしれない謎封印文書ですが、当時はなにか苦しげに選択した道を発表する西川にとにかく動揺したものです
鍵をおまえらメンバーに託したから探せ的なことを言われました
こっちはお前のジャンゴーはいつ生えた!?とか言われてから数週間の身です
どうしろってんだですよ本当
とりあえず、学校に行きGLAYオタに鍵は託されたことがあるのかどうかをひたすら確認しましたが、託されたGLAYオタなどもちろんいませんでした
1999/03/26(金)T.M.Revolution西川貴教のオールナイトニッポン
そして翌週、とっても嬉しい情報が舞い込みます
卒業式の日とかだった気がしています
1:00〜3:00という小学生には地獄のような深夜枠だった放送枠が変更となり、
今ならわかる、ニッポン放送のLF+R ラブアンドフレンズレイディオという謎展開がスタートします
SUPER!(22:00〜24:00)の幕開けです
ちょうどこの回からMDにAMラジオを録音し始めたようで、しっかりと現在も音源は残っていてときたま聞き直したりしています
このSUPER!の枠、大変思い出深く、全力で聞いていたのはこの頃だったという印象がとても強いです
何よりもの敵はやはりショウアップナイター(野球中継)で、wikiを読んだらその野球中継の延長の悲劇が見えるかと思います
あからさまに中身のない素晴らしい放送すぎて、どうでもいい小ネタしか思い出せないのですが、当時すごく覚えているコーナーは「あなたが私にくれたもの」がとにかく強い、黒深田恭子インマイルームだとかデヴィ夫人だとかまあ、とにかく強い
あととにかくCMで荘口彰久のDoCoMoのPHS物語が繰り広げられ、ミュージカルリトルショップオブホラーズの協賛であるドクターペッパーのジェニファーに電話をするとウクレレがもらえる
そんな1999年の春〜夏だった気がしています
ついでにもう一本レギュラー番組をTOKYO FMで持っており、MDを4倍?で録音するとちょうど1枚に1週分のラジオが録音できたため大変今でも比較的情報が整理され残っていて助かっています(どうでもいい)
当時まだ氷室京介ことヒムロックの残り香が強く、だが、大門というキャラに頼るような枠の変わり目の間の時代感を少し感じるころだったように思います
だが貴子みたいなキャラもあったのも事実
そんな中おそらく1999年夏だった?気がしているのですが、2000年かもしれない
今ではとても馴染み深い言葉が生まれました
最初がいつだったかとしっかり覚えていないのですが、
レーティング週に目玉としてブッキングした深田恭子がドラマの撮影が押し、生放送をキャンセルするという事件が発生
そう、レイヴです
もうすでに2000年代だった気がしているのですが、wiki読むと網羅されてるが、書いてあること以上の放送などなにもない、音だけだし現地の声はだいたい奇声と破壊音で構成されていて儀式が行われているという事実だけがひたすらに面白いというゲス極
まあ、当時の西川のニッポン放送での暴走っぷりはとにかくすさまじく、福山雅治を巻き込み加藤晴彦をひたすらにボコるという構図がとても思い出深いです
ひたすらに当時加藤晴彦がCMをやっていた「携帯バナナ」を連呼するなどし、本当にあったら怖い話というコーナーの「キャー!」という叫び声が加藤晴彦をドッキリに仕掛けた際の断片的な叫び声に変わったのは結構本当に相当好きでした
また、おそらく2001年のいわゆるTMR暗黒期の中ひたすら焦点を濁しての愚痴をいいまくっていたのも大変恐ろしい公共電波の使用方法で、あまりに長々と話しすぎて曲をかけた際に「曲なんてかけなくていい!」と遮って喋り続けるという爆発っぷりにドン引きしたのも相当だったなと思います
また、これくらいのころから清春=人を刺せるほど尖ったラバーソウルを履いている、生肉をそのまま食う、等の清春殺掠ネタが横行していました
そのウラで一瞬だけ西川がオチにこまった時に使う「WAY」的な叫びや、フリートークに石川が本格参入し、ゲラがすごいという現象がとてもよく起こっていたように思います
2001/09/11(火) T.M.Revolution 西川貴教のallnightnippon SUPER!
そんなこんなでラジオしかメディアでねえな、という日が続く中、かの有名な911テロが起こりました
通常通りにラジオを自分の部屋でつけ、台風が近づいた時に西川宅に鳴り響く庭の竹が壁に当たる音の話を聞きながら10分くらい経ったころかと思います
友人からガラケーにメールがきました
OAではやはりリアクションが遅く、TVであの1機目がつっこんだという映像をみながら聞いていた時にアナウンサーが突如登場し、このまま特番になるのかなと思ったのをよく覚えています
そのままぼんやりと「なんだかこれはすごく歴史的ヤバイ瞬間を聞いている、そのままラジオは録音しつつ聞いていよう」と思った記憶があります(がMDは紛失してた)
不謹慎ながらにこういった放送に当たる西川はラジオ力みたいなものもってるな、と思ったりもしていました
放送が終わってもテレビでぼんやりとその様子を見ていて、翌日中学校に登校し「西川のラジオ聴いてたよ」と友人に声をかけられたりしたりと、人生にしっかり残る放送だったなと思います
2001/09/30 オールナイトニッポンTV
ラジオでなくテレビでした
福山雅治と世界をまわってリスナーの夢を叶えるという企画で、本当に当時メディア露出がなかったので楽しみにしまくっていたのを覚えています
確か3時間以上の放送枠で、録画がVHSで収まりきらなかった西オタの友人が大量に発生し、シアトルでの佐々木投手との対決部分を横流ししまくった思い出があります(ドウデモイ〜イ)
あとはバレンタイン聖堂に行ったり、パスタ作ったり、ロシア行って撮影許可降りなかったり、とにかく西オタに「スパシーバ」というロシア語を植え付けた番組でした
2002/01/01(火)T.M.Revolution 西川貴教のallnightnippon SUPER!
ただのカウントダウン枠のSPだったのですが、このころ、とても揺れに揺れていたTMR周辺。
Out Of Orbit -Triple ZERO-が年明けに初OAされ、曲と共に記憶にめっちゃ残っています
ついでにこの年のミュージックソンでサカノウエヨースケがアコギで「募金の歌」を披露しまくっていたのも素晴らしかった
ひたすら募金募金募金募金イエーエー!と言いまくるだけの素晴らしい歌でした
2002/08/20(火)T.M.Revolution西川貴教のallnightnippon SUPER!
通称ヨッピー骨折本間は逃走回です。
当日はサマクラ2002と呼ばれる東京ビックサイトだか有明だかの駐車場での野外ライブが行われていた日で、地方民だった私は残念ながら放送を聞くこともなく終電に揺られておりました
予約録音したMDを聞いてこんなに後悔したことはありませんでしたね
先日のイベントで参加していたリスナーからのメールにて「警察には絶対に番組名を出すなと言われていたので全員頑なに守った」という素晴らしい事実も思い出しました(マジでひでぇ番組だよ本当)
マジ気が狂っていたが本当に心からこの時代はラジオが全てのエンタメだったな、と
まあ、とにかくこのくらいの頃になるとレーティング=レイヴラッシュをしていたように思えます
すこしそんな環境にも慣れすぎてしまい、しばらくSUPER!のウラでやっていたテレ東の「なんでも鑑定団」を優先させていました
気がついた頃には2003年、中盤ごろまでTMRがツアーをやっていたのでバリバリANNを聞いていたはずですが、高校生にもなり友人と遊んでいる方が楽しかったりであまり記憶に残っていなかったりします
でも当時撮ったプリクラとかにはめっちゃコーナーのネタとかの書き込みがあるから聞いていたのだろう、、
まあ、とびとびで聞いていた中で、衝撃のニュースが飛び込んできました
石川が外れて暗黒期へ
ANNと言ったらカーキブルゾン(インナーがオレンジ)でまゆげ極太パツキン坊主だった石川というイメージ(多分1998年くらいのTURBO会報あたりで見た)しかなかったわけです
2000年代初頭の蓄積の結果だなと結論づいた気がしてます
まあーーーーーそれはショックでした
これでANNも終わるんだなと思いました(のでほとんど聞いてない)
数回聞いた時、コーナーで確か「微動戦士ガンダム」ってやってて、なんともイマイチなテンションと石川の存在のでかさにショックを受けたのをとても覚えています
ハガキ職人たちのメンツはほぼ変わっていない(常連に新規参入した人もいたけど)のに、こんなにも違うのかと
それはそれはショックでした
それでもなぜか西オタの友人からいきなり「今ANNに出てる中村うさぎってひと、相槌が『ハアハア』でハァハァしててめっちゃおもしろいから聞いてwwww」とか言われて聞いた回はよく覚えています
以前はゆずと番組対抗で戦ったりしてて面白かったのにな、と大人のトークしちゃってやがるぜ、と、なんとなくでゲストが来る回は聞いていた気もします
2005/09/26(月) T.M.Revolution西川貴教のallnightnippon レギュラー放送最終回公録
そんなこんなで時たま聞く程度だったのですが、私もそれなりに運はよいようで
縁があったのだろうと思うことにしているのですが、偶然聞いた日の放送で、最終回が発表されました
当時の私はまさに高校中退(いちおうしてない)幽霊部員、フリーター(と言っていいほどバイトして遊び呆けてた)で、可能な限りを引きこもって過ごし、ぼんやりと行きたいライブに行くまさにダメ人間オブクズ、というか人生というレールを踏み外し、路頭に迷った人間だったのです
ひたすら家で時間を持て余し、よくわからない水彩画を描いたり、ひたすらニッポン放送の昼の帯番組(上柳昌彦のだった気がする)を聴きまくっていました
そんななかで最終回が発表され、確か公録の応募条件が「2日後までに自分の夢だとかを書いてメールする」だった気がします(番組への熱いメッセージだったかも)
とっても恥ずかしいお話ですが、現状と、ラジオ聴いてて「ダメ人間」ってワードばっか出てきて嫌気が刺したから私はなりたいものを見つけたので頑張りますね
みたいな熱いメッセージを送りました
勝手に内容で判断いただいた気がしてるんですが、公録の当選のメールが来て、それが本当に最後の最後、OA終わりを見る組で
ああ、これで私は目標に向かって頑張る理由ができてしまったとハラをくくって公録に向かいました
有楽町のニッポン放送本社前で集まったリスナーたちのお祭り騒ぎでもなく、なんとも沸き立った雰囲気をみながら、同じく当選した友人とぼんやーりと放送を聴いていたのですが
不思議なことに観覧に入るまでの記憶は本当にぼんやりとしていて、雨が降っている車内から外を見ているかのようで、とてつもない秋のさみしさみたいなのを感じていました
観覧がスタートし、提供読みなどで声を詰まらせる西川に対し、ファンが結構な悲しい声をあげてたのを一番はじっこの後ろから見ていたのですが、なんなんでしょうね、聞かない時期とかたくさんあったし、誰よりもこの番組を好きだったなんて到底言えないんですが、気がついたらめちゃくちゃ泣いてて、でも周りのファンと同じように声を出したりできなくて、「これが泣き顔でスマイルの正体か」と痛感したりして
確実にこの番組の下ネタ(主にお野菜クイズとミスリスナーズコンテスト)でしょうもない恋愛観とか育ってるんだよなとか、最後までしょうもないことばかり思い出してはぼーっと泣いてるヤベーやつだったと思います
でですね、これはあの組にいた人間しかわからないのが本当に残念なので言い続けてるのですが
番組のラストにLIGHT MY FIREを流していた時、観覧してる人にインタビューをしていたのですよ
その中の一人の女性が「ANNTVでバレンタイン聖堂に蝋燭届ける夢叶えてもらいました」って言い出して、盛り上がったわけです
ただ曲中で曲のボリューム下げてOAに乗せようとしたものの、謎のミュートと喋り声って状態になっていて、これは勿体無いと心底思った
あの女性も元気だといいなと思い出します、たまに
まあ、そんな感じで最後の最後、にカフを下げる(であってる?)とこまで見れて、本当に人生にしっかりと食い込んでくれる番組となり、2022年になった現在でもイベントに張り切って行ってしまったというお話でした
人は変わるし一緒にいられなくなったりするのがオタというものだが、また多分ラジオのイベントで懐かしいオタに会うのだろう、多分
2003年くらいの時、ライブ会場で見かけまくったハガキ職人たちを今でも確認できたり、とってもなんだかいい日だったなーというポエムでした
よくわかんないけど終了!