時代背景のわかるこの写真画質、プログレスアリーナグッズと飛び出し坊や、、、
先日ちょっとだけ野洲に行ったことがあるという話をし、思い出して検索をしたらドンピシャなニシナナライブがあったので
これは時期や現状を鑑みても書いてもいいんだろうと判断しました
これです
まあね、正直な話闇ですよ
だからきっとこんなね、ネット上に晒すようなマネはせず墓場まで持っていくんだろうとずっと思い出として、現実だったのかもよくわからないこととして約20年詳細は信頼できる人2〜3人にしか話したことはなかった
なにが言いたいのって
私もこのスミ子おばあさまのお宅にお邪魔させていただきましたオタの1人です
当時おばあさまがどんなことを喋っていたかとかは正直子供の頃すぎて覚えていないのですが、西川が言う通り、周りから見たら本当に優しい面倒見のよい?コミュニティを簡単に築き上げちゃうタイプのかわいらしいおばあさまだった、そして全国のTMRメンバーというものを統括していたすごいおばあさまだったというのがなんとなく書いておきたくなった
ただそれだけ
なんでおじゃましたのって話
私がお邪魔したのは2001年の9月くらい?
日付は全く思い出せませんが親の研修だかなにかで旅行ついでに京都につれてってやる!と言われたのがきっかけでした
当時は携帯電話は大人が持つものでPHSがようやく出回り始めたような状況の世の中だったように思います
ファン同士での交流は文通がメインだったのがようやくFAXとかも経てインターネット環境が整いだし、、なんて感じ?
とってもこれはDA界隈にいたからこそだと思うのですが、それでもインターネットでHPを作ってるだとかってオタは本当に早くから存在し、その一角にどうやってか身を置いていたのを覚えています
つまり、文通しながらもファンサイトってもんでなんとなく全国の人となぜか仲が良かった、そして親のケータイってもんを借りながらとにかく文通ってもんに力をいれまくっていた時代だったのです
大体は自分の住んでいる都道府県近郊での友人が多かった、でも不思議なことに東京都民というのはこう言うところでもフットワーク的なものが軽いのか、人口が多いのか、、5:5ってくらいの割合で東京都民と交流を持っていた
こうやってオタをやっていると遠征に慣れすぎているひとが良すぎていて、みなフットワークが軽い軽い
本当にいろんな土地の人と交流を持った思い出があります
今考えてみればすごいことだ、文通メインなのに、、
で、その中で比較的近所(といっても車で1時間とかのところ)のお友達Nちゃんとよく遊んでいました
Nちゃんと話していたうちにwebサイト上で気がついたらNちゃんと仲が良かったTちゃんとも仲良くなりました
よくある話です
このTちゃんがめちゃくちゃに面白い、関西在住で、とにかくフッ軽(フットワーク軽ね、一応)で、Nちゃんと行ったお友達主催のDAカバーライブ的なのとかで「はじめまして〜私Tです、え!オマエ知ってるぞ!」みたいなことが起こるようなフッ軽
ど田舎でライブにあこがれる私にとっては、こういうことしたいわー!と憧れちゃうようなフッ軽でカッコよい風貌のあこがれおねえさんでした
つまりこのTちゃん、私の主観で書いていてもわかる通り、コミュニケーションオバケタイプの子だったのです
親のケータイとかなんかを使ってネット上で出会って1年もしないうちにきっかけとなった京都に旅行という話が出ました
親は2泊するうち丸一日研修だかでお仕事です
いい機会だから一人旅しなさいなんて言われ1日時間が空いたのでかるーいノリで関西在住だったTちゃんにどうにか会えるかもな!と連絡を取りました
Tちゃんは「滋賀のな、●●(知らない地名)ってとこに住んでんで、京都にもそこそこ、野洲にも近いで〜」とよく言っていたのを覚えていたので「野洲観光いつかさせてよ!案内して〜」と私はよく言っていたのです
連絡も簡単にとれて、サックリ〜と俗にいう聖地巡礼が決まりました
といっても私はまだ中2くらい、何を見るなんて考えてもいなかった、Tちゃんに会って多分野洲駅にでも降り立って「へ〜野洲ってこんなとこか」と見る、程度の認識だったはずでした(クソガキなので想像力が追いついていないといまならよくわかる)
いよいよTちゃんと遊ぶ当日になり、集合場所とかを指示してもらい、なんやかんや京都滞在2日目の夕方18:30ごろに野洲だかその辺の駅にて待ち合わせをしたと思います
なんでこんな時間かさっぱり思い出せないのですが、あたりは真っ暗〜で「こういうのって普通昼だよな〜」と思っていた
Tちゃんと合流して「ホントに来たんだ!よーきたな!エスカレーター左の地から!」みたいなこと言われて、遠征慣れフッ軽やろうはいうことが違うぜと感心していたところ
「野洲でなにしたい?やっぱいくやろ!」みたいなことを言われ、ああ黄金コースがあるのか?みたいな感覚で「小学校とかいくの?暗くない?」みたいな、正直それ何が楽しいのよ?って気持ちで聞いたのをよく覚えています
ですが、Tちゃんはコミュオバケ、私はTちゃんのスペックの高さを侮っていたのです
「え?タカノリのおばあちゃんちいくやろ!」
「ハアアアア????」
野洲は恐ろしい土地でした
Tちゃんはその場でケータイを取り出しさっさとおばあちゃんらしき方に連絡
「もしもしおばーちゃん?いまからファンの子連れてってええ?ありがとう!ほな!」
みたいな関西〜な、かっっっっっっっっっっっるいノリでアポイントを取り訪問が決定
ニシナナLIVEにあるとおりなんですが、おそらく2000年ごろにファンを大量に送り込んでいた地元のファンというのはこのTが確実に数人いた中の一人とよくわかる
まあ、そうやって今でも正直夢か幻か現実か信じられない観光がスタートしました
場所などは正直全く覚えていない、なんとなーく歩いているうちに見える風景で「あああれがヤスヒロが犬を投げ込んだ竹林だろうな、しらんけど」みたいなのとか、「あーなんか近くに川がどうとかってよくラジオで言ってたな」みたいなとことかが見えた気もする
とにかく私は深夜(といっても19:30くらい?)におばあさまのお宅におじゃましていいのか、うちのばーちゃんは21:00になったら寝ようとするぞ、、いいのか、、とめちゃくちゃ困惑していたのと、
このTちゃんの関西ノリなのか本人のコミュ力なのか、なにか大きな川にでもながされてんのか?みたいな心境でよくわかんないままとある住宅地の一軒のお宅の前につきました
(これニシナナライブみてて「あ?そうだったかも?」と思ったのがお宅の前にカエルの置物が〜みたいなの、なんか確か玄関前に石でできたオブジェ的なのがあった気がする、そんな雑な適当な印象ある)
特に何にも覚えちゃいない、すごく「ああ!そういうタイプ!」というものがあったりしたりしたのですが、プライバシーだとかたくさんあるので言えないこともありつつ、まあごくふつーーーの民家!というお宅にガシガシ入っていくTちゃん
そして玄関にお出迎えしてくださったとってもふつうなかわいらしーおばあさま
「まー!Tちゃんあがってー!」「おー!おばーちゃんー!また連れてきたでー!」
みたいなやりとりをするTとおばあちゃんをみていろいろなものが確信に変わる
こいつ、入り浸ってやがるぜ!なんだこれ!!!!!と
正直ね、急展開すぎるし本当にフランクに接されすぎて現実かわかんないのです、とにかく深夜にどこかのおばあさまを捕まえてオタトークを展開しているのはわかる
気が引けて、見知らぬ土地の初対面のもしかしたら近親者という人生の先輩というものに緊張して何を話しているかさえわからないレベル
ガチガチすぎて、そしておばあさまがとにかくファンという若者にフランク〜になんでもやさしーくいろんな話をしまくりすぎてとんでもない情報量ですべてが流れてゆく
(これもニシナナライブ見て思い出したが、確かに金のガチョウの話してた気がする)
で、Tちゃんがおばあさまと仲がよすぎたのかなんなのか、メインの話は結構西川ご本人とかの話でなく、ファンの子がここによく遊びに来るのよって話で盛り上がっていた記憶がひたすら鮮明です
アルバムをごっそりと2Fから持ってきてくださったのですが、ものすごい量の全国のファンとの交流の歴史や、文通していてこの子は●●でこういうことが最近あってね〜と話してくれて、本当にファンの子を家族のように思っているようで、、、
正直〜なところこのおばあさま、うちの祖母に性格が激似だと思っていたのです
コミュニケーション大好きおばあちゃんって感じで、なんとなく会ってすぐフィーリングでわかったというか
でもこんなにたくさんのファンの子を一人一人覚えていて、みな子供のように気にかけて思い出を話していて、、うちのばーちゃんにはできねえ、、すげえぜ、、、と素直に感動したのを覚えています
何を話したのか本当に思い出せない、でも見ててあったかくなるようなファンとの交流をめちゃくちゃ見せていただいた
んで最後に「きてもらった人には連絡先を聞いてるの、これに住所と名前を書いて」とファンのノート的なものに住所等を記載し突然のお宅訪問は終了しました
急だったからね、●●もいないし(多分同居されてる方?)お茶しかだせなくてごめんね〜とお気遣いいただいてしまい、なんという世界だ、、、と衝撃に飲み込まれるしかできず本当に何も覚えていない、、、
正直こんな体験をしてる友人も関東圏にいる私にはまわりにおらず、あれは本当におばあさまだったのだろうか、そうなんだろう、、本当になんだったのだろうとたまに失礼ながら疑ったりしていた20数年でした
1年くらい前、なにかで見た聞いた西川の発言でコロナ禍でおばあさまとお父様が入院等をされていると知り、あのおばあさまだろうな、と勝手ながら気に留めたりもしていたりした
あの訪問の後、しっかりと書き留めた住所をたよりにおばあさまからお手紙を頂戴してなんどかやりとりをさせていただいたりもしたのを思い出し
こんなに時が経ってしまったのだと思ったりなんだったりと
とっても不思議な、貴重な思い出を頂戴したのはおそらく一生忘れないなと思い出した次第でした(大半パニックすぎて忘れているが)
あの本当によくある一般的なおばあちゃんのお家に大量に飾られるファンとの交流とか孫というものはこの世にあそこ以外にどこにもない、すごい一瞬だったなと思いました
時の流れってもんでもうきっとなくなってしまったと思われるが致し方ないというかそういうものだ
もっと大事にすれば良かったいろいろ、とちょっと思ったりしました
気が引けて写真も一枚も撮れず、残っていない、、
もうちょっと早かったら9/19の誕生日だったからファンの子みんなきたのよ〜と話してくれていた
なんというか、ありがとうございましたとお伝えしたい次第でした!!!!!
ついで
Tちゃんとお宅訪問をした後、近所のファミレスに行き「マジなんだったの!?この数時間!」と聞いたら「すごいやろー!仲良くしてくれんねんおばあちゃん!大好き!」とまあ、本当に家族ぐるみで仲良くしているというお話をしたりなんだり
マジTすげーなとひとしきり盛り上がった後に野洲近郊のカラオケ事情の話を聞いた
当時関東の山奥住まいだった私だが、近所にシダックスだとかビッグエコーだとかのカラオケチェーンってものは普通に存在し、まねきねことかいう500円程度で平日昼に6時間くらい歌い放題をよくしている、と話たところTにバリバリ驚かれた
当時はこのエリア(Tは多分野洲の隣駅とかに住んでた)にはカラオケボックスってものはあまり存在せず、学生同士でスナック的な店舗を貸し切ることでカラオケボックスにするという衝撃的なことを言っていた
そりゃ農家の倉庫だとかがバンド練習場になるよな、と
このTの周りだけだったのかもしれないが、こんなフッ軽の子がこんなことをいうんだからそれは事実だったのだろう、西川自体がカラオケ世代というものではないのはわかっているが、そんな環境でボーカリストってものが生まれるのはとてもすごいことなんじゃないの?とちょっと思ったりした(正直野洲の一番の思い出)
で、フッ軽Tのすごいところがまたここで
「アンタ明日も京都にいる?大阪でラーメン食おう」
「ハアイイイイイイイ???????」
Tは観光者の私に配慮し2001年1月2日にOAされた「フジ☆レボ LIVE2001」での藤井隆と西川王子の大阪珍道中でのゆかりの地、ビンボー時代に炭水化物と炭水化物のガチンコを楽しんだラーメン店「大洋軒」に誘ってくれたのでした
ここね
ここでも「アラー!西川くんのファンねー!よくきてくれたわねー!どこからー!関東の人ねー!」みたいな歓迎を頂戴しつつ「Tちゃんもまたきてくれたのねー!」みたいなのを目撃しつつ、関西とTすっげー!となって楽しんで帰ってきました
断片すぎてわけのわからない大洋軒のショーケースお写真
10年くらい前に閉まってしまったが思い出のミソラーの味としてしっかり覚えてます
炭水化物!
交流は無くなってしまったがなんやかんやとTちゃんがはんぱねえ!って思い出話でした
終了!